六月末、官軍は高須に上陸、一部は志布志に、一部は鹿屋高隈方面、一部は花岡、新城、垂水に進み前衛は七月四日二川に5日百引に達した。
五日西郷軍はニ中隊より成る大斥候隊を牛根方面に向かわせ、二川に至って官軍のニ中隊と衝突し、勝負決せずして恒吉に帰った。
八日西郷軍は中島、貴島隊の全力を挙げて百引に向かい官軍の不意を突いて勝ち戦利品を多く得た。官軍は多数の死傷者をだして二川に退いた。この頃の様子を古老たちは次のように話している。牛根の鳥帽子岳に西郷軍、上ン原に官軍が陣取って両府から撃ち合い多数の戦死者が出た。二川家の元の家が野戦病院に使用され両軍ともに治療したと言う。鳥帽子岳付近では今でも当時のものと思われる弾丸が出て来る。二川の中浜カナという人は西郷軍の中に夫がいるのではと高鳴る胸を押さえながら密に捜しに行ったという。
隈元真浄坊という人は山伏殿(やまぶしどん)で寺田屋事件の頃から西郷側近の諜報者として活躍し、十年戦争の時も山法師に化けて県内を活躍したと言う。自宅にいる時も櫃の中に隠れていて食事もその中でとったという。
隈元一男家は西郷家と深く交際していたらしく隆盛の弟の子隆準の出した母の年忌の招待状、その他の手紙が残っている。隈元一男家は牛根の郵便局長をしていたが西郷菊次郎や隆準氏はよく釣りにきていたと言う