垂水島津家は最初、荒崎の垂水城に住んでいたが4代久信の時、山城で家臣も増え手狭になったため現在の垂水小学校辺りの原野を切り開き、林之城を築き武家屋敷を整備、慶長16年(1611)政治の中心地とした。天明年間(1781~11788)9代貴儔の時、それまで浜平で商売をしていた川畑、川井田、大迫、宮田の24家を本町に移し御用商人とした。もとは本城城主伊地知氏の家臣だったが伊地知氏が島津氏に滅ぼされ垂水を去った後商人になった。幕末録をうしなった武士のために質屋をしてお金を貸した。垂水島津15代貴徳公は33歳で亡くなり16代貴暢公が幼かった(5歳)ため別邸浜御殿に移られてからも資金援助をした。今この浜御殿跡は川畑家が所有している。文行館にある垂水島津家ゆかりの品々も川畑家が所有していた物です。
今から300年前この本町で商売をしていた24家で現在も続いているのは十五郎そば,善八酒店、宮田薬局、丸善薬局、さかや、川井田七郎商店、川畑新聞販売所などです。
昭和31年1月16日川畑弘見氏は250ccバイクで桜島フェリーに乗るため待ち合い室に行くと7,8人の人垣ができ中に山下清画伯がいた。垂水に行きませんかと誘うといいと言いバスに乗せ自宅の離れで21日間逗留させた。その間に3枚のクレパス画と1枚の油絵を描いた。絣の着物に胸あたりで帯を結び、下駄ばき、白いリュックを背負い、4月末まで垂水の人家を放浪した。弘見氏の母親はあまりのみすぼらしさに絣の着物をプレゼントし(男は腰で帯を結ぶのよ」といいつつ着せたという。
川畑家に21日間、隣のすずや化粧品店に1ヶ月、水の上中学校教師宅に1ヶ月、水の上藤川宅に1週間程いたという。その間に垂水小学校、協和小学校、水の上中学校の生徒とも交流があり60歳から70歳ぐらいの方は当時の様子をよく覚えていらっしゃる。