勝軍地蔵

勝軍地蔵-1

高城にある勝軍地蔵は1506年高城城主肥後文次郎盛明が太守島津忠昌を施主として子孫繁栄、武運長久、領内安全を祈願して建てた県内で最も古い木仏像です。昭和28年県の文化財に指定されています。垂水には鎌倉から室町にかけて多くの豪族がいました。肥後氏は平清盛の孫行盛といわれ13世紀種子島から垂水に移り高城を中心に250年間治めました。壇ノ浦で敗れた平家の残党は大隅半島、種子島、屋久島を経由して奄美に着いた清盛の孫にあたる。資盛,行盛、有盛は島内を平定し資盛は瀬戸内町、行盛は龍郷町、有盛は名瀬に居住したといわれ龍郷町戸口に行盛神社がある。皮肉な事に1412年伊地知氏が垂水にきて肥後氏は滅ぼされました。伊地知氏は源頼朝の重臣畠山重忠の同族です。まさに垂水における源氏と平家です。今でも垂水には肥後姓、伊地知姓はたくさんあります。

 

歴史こぼれ話

地元に伝わるこわーい話    戦国時代、ここ垂水でも平家の子孫肥後氏、畠山重忠の子孫伊地知氏、そして島津氏、となり肝付氏、禰占氏など豪族同士の領地争いが絶えませんでした。勝っても、負けても戦死者は出ます。

伊地知氏の山城本城に島津家4代久信の頃、お家騒動で殿に誅殺された川上、町田家老の墓がある。3年程前場所確認にいった。伊地知氏の菩提寺跡、苔むした墓石群の一番上にあった。二人だったが薄気味悪く地元の人に聞くと一人ではいかないほうがいい、幽霊が出ると驚かされた。町田家老の子孫Wさんは供養に行き夜12時を過ぎても帰ってこないので家族から捜査願いがでて地元警察が行くと近くの木の根元に座り込んでいたという。

馬込集落から柊原へ抜ける(せどやん、トンネル)の上は地元の人は(みんけん坂)というが本当は耳切り坂です。1574年島津氏と肝付氏が牛根の咲花平で戦をし肝付氏が負けました。勝者の侍は何人殺したかで石高や報酬が決まるので相手の耳を切って証拠としました。新城戸越には血止めの坂という地名も残っています。