肩衝茶入と垂水島津以久公

 垂水島津家2代以久公は1550年うまれ、1610年に亡くなっている。以久公の父(忠将)と義弘の父貴久は兄弟です。

 天正15年太閤秀吉は20万の兵を率い出水まで進軍、太守義久公は川内、泰平寺にて秀吉に降伏し娘亀寿を人質に差し出す。垂水島津家3代彰久,以久も人質として上洛する。この時秀吉に3大肩衝と言われる「楢柴の肩衝」をもらう。これは領地をもらうに等しいものだった。秀吉亡きあと、佐土原3万石を徳川家康に与えられた際のこの肩衝を献上した。徳川3代将軍家光までは茶会で使われたが江戸城の大火で焼失した。「初花」「新田」の肩衝は今でも徳川家にあるという。

5日、本物の肩衝を見たいと思っていた。指宿白水館「薩摩伝承館」で8月31日まで行われている「大名茶の時代」の展示会に行った。薩摩に伝わる茶器が2階に展示してあったが「肩衝」の展示場所から動けなかった。

 何も分からないけれど薩摩藩島津家伝来の「平野肩衝」は1600年関ヶ原の戦いで敵中突破を強行して落ちのび大阪から逃げてきた義弘夫人と忠恒夫人に船上で再会、両夫人が平野肩衝と島津家系図を持参し、義弘が大変喜んだと言われる。

400年の時を超え、一般の我々でも本物の茶道具に出会えるなんて・・・・・「肩衝]のコーナでしばらく見入ってしまった。もういつ会えるかわからない。