屋島,壇の浦で敗れた平家の総大将平知盛は周防八島において戦闘員と非戦闘員に分けた。戦闘意識の強い若手連中は源氏と一挙に雌雄を決せんと知盛自ら壇ノ浦に向かった。
一方幼帝及び公達を護った平家直系の「小松資盛(重盛の二男清盛の孫)は家来1300人を70隻の小船に分乗させ伊予高島より九州に向かった。途中風浪にさいなまれながらも1182年5月1日、早朝硫黄島の御手洗浦に着いた。約300人、1000余りは途中の島陰沿岸に脱落した。小さな硫黄島に300の公達以下郎党を受け入れる事は無理である。8年前に流された俊寛ら3人も極貧の生活を強いられた。
やむなく主上の身代わりをおいて内地へ引き上げた。垂水方面へ潜入した一族は新城の浦ん川内、段の西尾家,野久妻、市木、浦之谷、牛根辺田等がある。「垂水市史上巻」
国道220号線中俣を山手に10分程車で走ると3,4軒の集落がある。40年程前一度訪れた事があるが垂水市民でもあまり知られていない。ひっそりと身を隠していた平家落人がしのばれる景色です。